月1回、札幌Lプラザ3階で合唱練習をしています
ゲーテ作詞の野ばらを歌う合唱団です。その他の特徴としてヴォイストレーニングを多くの教則本を用いて練習する合唱団です 近年は福祉施設演奏を楽しみに練習しています。 “野ばら”収集曲集は坂西八郎編「Goethe Heidenröslein 楽譜「野バラ」91曲集」岩崎美術社 を参考に歌い継いできました。作曲者の所以のある場所やゲーテゆかりの場所で歌ってきました。収集者 坂西八郎先生が収集してくださった曲を感謝と喜びを込めて歌い継ぐ合唱団です。近年新しいゲーテ詞“野ばら”が次々と発見され、私たちに歌う楽しみを与えてくださる日も近いと思います。
岡元眞理子と野ばら合唱団、北広島少年少女合唱団は、下記のような野ばら演奏を行ってきました。それは1991年から始まりました。1990年11月ある日突然、国立日高自然の家の事業課長から“野ばら”を歌ってほしいとの連絡がありました。本当に88曲(当時はまだ88曲)もあることに驚きました。そして歌うことになりました。それから6年間毎年私だけではなく少年少女合唱団も経験し一緒に歌い継ぎました。野ばら演奏旅行は6回Tourism of music(音楽の旅)がおこなわれています。市制お祝いなど含めて24年間が経ちました。2016年には25年目を迎えます。北海道の自然はヨーロッパの野ばらが咲く地とどこか似ているのです。楽しい嬉しい旅・・・坂西八郎先生ありがとう!
講師紹介
代表:岡元眞理子(おかもとまりこ)
ピアニスト:山田陽子(やまだようこ)
練習日
不定期:月1~2回、土曜日もしくは日曜日 13~16時
練習場所
札幌市男女共同参画センター(エルプラザ3階 音楽室)
(北海道札幌市北区北8条西3丁目 札幌エルプラザ内 電話011-728-1222)
会費
〜未定〜
これまでの活動
「国立日高自然の家」主催「『野ばらの集い』野ばら異曲全曲完奏開催年月日
1991年3月29日、1992年3月28日、1993年9月11日、1994年9月10日、1995年9月23日・24日、1996年8月8日、(詳細は国立日高自然の家平成9年発行第9号シシリムカに掲載されています。私の他多くの人々が歌い継ぎました。)
「北広島市制施行行事『ゲーテ野ばらの歌の花束をお祝いに』」
1996年8月31日15:00~21:00、9月1日9:00~12:00
※26合唱団体、22人の独唱者、参加観客延べ人数約3,000人以上
「ゲーテ『野ばら合唱団』演奏旅行」
第1回目1996年【32名】
- ワイマール市 (1996/9/10ワイマール・ゲーテ高校講堂)
第2回目1999年【62名】
- ドイツ、ロイトニンゲン市(1999/9/11,エーニンゲン混声合唱団)
- カルフ市(1999/9/12,アウレリウス少年合唱団)
- スイス、チューリッヒ市(1999/9/7、チューリッヒ旧教会)
- オランダ、アムステルダム市(1999/9/6、アムステルダム旧教会)
第3回目2000年【1名】
- ハンブルク市郊外グースツナハツ市(2000/9/18,Christuskirche教会にて「岡元真理子野ばらリサイタル)
第4回目2001年【40名】
- デンマーク、ファボー市ファヴォルク教会(2001/9/6、プラヘトロルボー混声合唱団)
- コペンハーゲン市(2001/9/6、コペンハーゲン音楽院前広場)(2001/9/6、コペンハーゲン王宮広場)
- ノルウェイ、オスロ市 (2001/9/8エンゲルスボルク老人ホーム)
- スェーデン、ストックホルム市(2001/9/10, 市役所内、前庭)(2001/9/10、ストックホルム王宮広場)、ルント市(2001/9/7、ルント大学図書館ロビー)
第5回目2006年【42名】
- チェコ、プラハ市(2006/9/18、ホテル・デュオ ロビーステージ)
- クドヴァズルドイ村(2006/9/16 、モニューシコ音楽祭ステージ)
- ドゥズニキ村 (2006/9/16、サラトニューム鉱泉温泉、ショパン音楽祭地ステージ)
- プラハ市(20069/19ロレッタ教会)
- ポーランド、ボスナム市(2006/9/15、Towarzystwo Milosnikow Miasta 講堂)(2006/9/16、ボスナム楽器博物館所蔵ショパン記念コンサートホール) (20069/13ショパンアカデミー内モニューシコ・ホール)
第6回目2011年【34名】
- ドイツ、ベルリン市(2011/9/14新ナザレ教会)
- バイロイト市(2011/9/16聖トーマス教会 教会音楽のみ)
- ウルム市(2011/9/18 ラウテルン教会)
- ハレ市(2011/9//15マリア教会)
- メミンゲン市(2011/9/20市庁舎広場)
- 世界遺産ヴィース教会(2011/9/19 野ばらパイプオルガンで)
- オットボーレン教会(2011/9/20、)他
- 2011年第6回演奏旅行では「日独交流150周年」事業に認定された
「野ばら」から鑑賞ばらへと広がる景色が、ヨーロッパの様々なところで目にすることができる。早いものでゲーテの「野ばら」を歌い出して 年も歳月が流れる。札幌市屯田に住むドイツ文学者坂西八郎先生が、世界の野ばらの歌を集めたのである。そして、HBCのテレビ番組で放映された。坂西八郎の野ばら収集の偉業を番組にするのではなく、既に坂西八郎によって集めた曲の出店場所、図書館や博物館などに、改めて伺い、その原譜を見る、または地元の歌手に歌ってもらうという映像であった。また、作曲者について坂西八郎から聞いたことに肉付けしたように語っていたのであった。ふと思ったことは坂西八郎という学者が一番訪れたかった場所、人との触れ合い、その曲の楽譜を持ってみることではなかったのではないか、・・と思った。なぜ坂西八郎が訪れた映像ではないのか。
いろいろな文化伝承方法がある。その地域の人々の生活様式から生ずる文化がある。文化の構築方法は、楽理音楽において第一段階の発見、第二段階の実証、第三段階の実践、第四段階の証明があると考えた。その段階毎に研究が伴う。今、筆者10年20年かけて行ってきた細やかな演奏活動は第三段階の隅っこに存在しそうである。すべての作曲者の生涯に関係する場所を訪れて演奏を行うことにより、演奏旅行者にとってはフィールド・ワークを行うこととなる。海外旅行の学習も手伝ってすこぶる有意義な学習活動といえる。
なにしろ90曲(後に岡元が企画した「北広島市市制記念演奏会『野ばらの花束でお祝いを』にて札幌市在住上元芳雄曲を91曲目に加えた」もの違う曲を歌う喜びは、世界一流のレストランで91種類の珍しい食材の豪華料理をいただくようなものである。また、作曲者によっては、作曲法より感情表現を優先した作曲者や、作曲法を会得しない作曲者、作曲法ばかり念入りにつくり、まったくつまらない曲など様々である。
また、再び埋もれてもしかたがないと思える歌いにくい作風であったり、本当に興味深く
新しい曲に出会った時は胸がときめくものである。このような喜びを与えてくれたのは坂西八郎である。坂西八郎は「歌われてこそ野ばら」と書いているが、民謡であり、地元の生活臭のあるこれらの曲は、人間がいきている証であり、神様のための礼拝曲ではないが、民衆が、神に支えられてここに生きているという喜びの証拠の歌である。ゲーテは感性豊かな、本当に人間臭い人物である。そのゲーテは短いがどのようにも解釈多様な「野ばら」を残した。その詩を手にいれた作曲者はいろいろな思いをい込めて旋律を作っていくのである。筆者は多くの学者が発見したり、集めたこの曲を、この時点で一番多く収集し、研究し一冊にまとめるという後世まで残る一冊の収集集を発刊したのであった。
2011年ドイツ野ばら演奏旅行と音楽史内容
月日 | 場所 | 音楽史内容 |
9月14日 | 新ナザレ教会 | |
シャウロッテン宮殿 | ブランデンブルク選帝候フリードリッヒ3世(1701年からはプロイセン国王フリードリッヒ1世)が妻フィー・シャルロッテのために1695年に建てさせた夏の離宮で、当初はリーツェンブルク宮殿と呼ばれていた。18世紀のチェンバロが展示されている。ベルリン宮廷楽器製作者ミートケによる。ミートケ作成チェンバロはJ.Sバッハも使用していた。王妃フィー・シャルロッテは音楽を愛好し、宮殿に小劇場を設け、イタリアから宮廷楽長としてAttilio Ariostiを招き、オペラを上演させた。その初めてのオペラ「イメネオの祝祭」(La fest de Hymeneo)はベルリンで初めてのイタリア・オペラであった。ここの正面広場で歌いました。 | |
THUERINGER HOF | ||
9月15日 | Kirchohmfeld Heinrich Werner Denkmal |
ウエルナーの生まれた町、家、墓、教会を訪れた。「100Jahre」と書かれたパンフレットは、、昨年2010年7月31日生誕記念のコンサートのパンフであった。Gemeinsames Chorsingenが出演したらしい。そこではウエルナーの野ばらを歌ったとのことである。ここで皆さんと歌いました。 |
ハレ市 | ハレは古ドイツ語で“塩”を意味する。ゆえにハレは古くから塩によって栄えてきた。中世においては、ハンザ同盟の加盟都市として繁栄した。1920年、この地で開催された党大会で、独立社会民主党はコミンテルンへの加盟を決定した。この方針に従うものがドイツ共産党へ合流したことで、同党の勢力が増すことになった。第二次世界大戦では、奇跡的に空襲をあまり受けず、沢山の歴史的建造物は無傷で残っている。戦後間もなくはアメリカの支配下にあったが、すぐにソ連へ引き渡されることとなる。 | |
マリア教会 | ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(ドイツ→イギリス)と、 Georg Friedrich Handel(1685~1759)2月23日、ドイツのハレに生まれる。 1693年(8歳), 聖マリア教会(マルクト教会)の オルガニスト、ツァッホウのもとで音楽を学ぶ。 1697年(12歳), 父ゲオルグ死去。 1699 年(14歳), 確認される中で最古の作品、トリオソナタを作曲。 1701年(16歳), テレマンに 出会う。特別展示のそばには2つの常設展示(芸術、博物標本とフランケの小展示 室)があり、さらにドイツ最古の図書館用のマルクト教会. 4本の塔とそれに並ぶ赤い塔のシルエットはハレを訪れるものを印象付ける。聖マリア教会と呼ばれるこの教会は、ブランデンブルクの枢機卿アルブレヒトにより1529~54年に建てられた。祭壇の上の絵画は、1593年にライプツィヒのハインリヒ・リヒテンフェルザーによるマニエリスム様式のものである。十二使徒の行いが描かれており、イエスから遣いを授かる使徒の部分はオルガンにより隠されている。変わり祭壇は、1529年にマティアス・グリューネヴァルトにより設計され、父ルーカス・クラーナハ一門により制作された。次の3通りに変化する。1.中央には三日月上にキリストを抱く聖母マリアとそこに祈る枢機卿アルブレヒトが、その両翼にはそれぞれマウリティウスとアレクサンダーの聖人像が描かれる。2.マグダラのマリア、ヨハネ、アウグスティヌス、カタリーナの像。 3.中央にはキリストの誕生を知らせる天使ガブリエルが、その両翼には聖ウルスラとエラスムスが描かれる。それらの下にはキリストを抱く聖母マリアと14人の救護聖人が描かれている。大オルガンは、1716年にその前面が作られ、内部機構はヨハン・ゼバスチャン・バッハの監査のもと完成した。今日のオルガンの内部機構は3台目のもので、ポツダムのシューケ・オルガン社1984年製。前面はバロック様式で、4170本のパイプと56の音栓からなる。毎週日曜日のミサや礼拝で使われるほか、教会暦による数多くのコンサートで演奏される。ライヒェルのオルガン(小オルガン)は、1664年ゲオルグ・ライヒェルにより設置された。コンサート用オルガンであり、背後から演奏する。コルネットの音色を持ち、そのため中世のオルガン用楽曲に適している。等身大のキリスト十字架像は1500年頃に制作され、改築前の教会から持ってこられたとされている。当初は祭壇室に掛けられていたが、教会修復の後1987年に西側の柱に移された。モダン・アートによる十字架像は、1975年ペーター・ヒンツにより19世紀の十字架から作られた。人間のあらゆる苦悩を負ったキリストが救済の手を差し伸べている。磔刑像は中世後期に制作されたもので、十字架の下にはマリアとヨハネが描かれている。マルクト教会は1541年にプロテスタントとなった。宗教改革により枢機卿アルブレヒトはマインツへの退去を強いられ、やむなくハレを離れることとなる。その後ルターの協力者であったユストス・ヨナスが1541年の聖金曜日に最初の礼拝を行った。マルティン・ルターはこのマルクト教会において3回の説教を行ったが、1546年1月故郷アイスレーベンへの帰途、ハレに立ち寄った際の説教が最後となる。ルターは2月18日アイスレーベンで死去。遺体はヴィッテンベルクへ運ばれる際、マルクト教会の聖具室に一晩安置された。ユストス・ヨナスにより取られたルターのデスマスクと1546年当時の木製説教壇は、教会の北の塔に保管されている。また、ルターとヨナスそれぞれの紋章レリーフは聖歌隊席に彫られている。ユストス・ヨナスの後継者であるゼバスチャン・ボティウスは、1552年はじめの教会図書館となる聖マリア図書館を設立した。図書館はマルクト教会の向かい側に位置し、600冊の初期印刷本を含む3万冊の蔵書を持つ。ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデルは1685年にマルクト教会で洗礼を受け、後にフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァコフ(1684-1712)からオルガンを学んだ。そのほかザミュエル・シャイト(1628-1630)、フリーデマン・バッハ(1746-1764)、ダニエル・ゴットロープ・テュルク(1787-1813)などがマルクト教会オルガニストを務めた。ここで歌いました。 |
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ハレの植物園 | この植物園は1698年に当時のプロイセンでこの種の最古の施設として設立されました。4.5ヘクタールの土地には温室、露地栽培施設などがあり 12000種類の植物が栽培されており、そのうち5000種はサボテン、食虫植物、ラン、水生植物、中央アジア地域の植物など特殊ものとなっています。この膨大な植物と多面的な技術設備は 大学の授業や研究などに利用されています。ここで練習しました。 | |
AUERBACHS KELLER | 1525年、ライプツィヒ旧市街の中心にあるMädler-PassageにAuerbachs Kellerが創業しました。その歴史ある地下室の名は、当時の医師で市会議員であったDr. Heinrich Stromerの生まれ故郷Auerbach in der Oberpfalzに由来します。また1765〜68年、若きヨハン・ヴォルフガング・ゲーテがライプツィヒへ勉学のためにやって来た際、彼はあるAuerbachs Kellerの客人から黒魔術師ヨハネス・ファウストス博士の伝説を耳にします。店の雰囲気やその旧き伝説絵画に魅せられたゲーテは、ライプツィヒの名高き地下室を彼の『ファウスト』に登場させます(Auerbachs Kellerの場面)。以来、そんな由緒ある史実を希少な空間で美味な料理と共に味わうために、世界中から毎日たくさんのお客様がAuerbachs Kellerへ足繁く訪れています。あるアメリカの調査によるとAuerbachs Kellerは、世界で最も有名なレストラン・ベスト10の第5位にランクインしています。森鴎外の写真も飾られていました。 |